京都東山 京都一周トレイル(3) '14.11.4 晴

 東山コースの最終回である第3回目の下見でした。多くのお客様の案内のためにきめ細かなチェックが必要です。今回は北白河仕伏町のバプテスト病院下から谷筋を辿ります。大山祇神社と地龍大明神の境内を進み、第3回目の安全踏破をお祈りして清沢のさらさらの流れを登りましょう。

 すぐにメタセコイヤの高木付近にある57-1道標を右折への旧コース案内は面白みに欠けそうなために、白幽子や瓜生山を聞いていただくつもりです。そのために左折し、瓜生山へ向かいます。途中には北白河愛郷会の歴史関係の説明板が多数立てられています。白幽子旧跡あたりのいろいろな説明は山歩きの休憩がてら物語風が楽しめます。

 白幽子とよぶ仙人は臨済宗白隠禅師の「夜船閑話(やせんかんな)」に紹介されている実在の人物とのことです。どうやら、夜船閑話の発祥地ともいえるようです。1710年白隠禅師がここで白幽子により病を治癒されたといわれています。
 ことわざに「白川夜船」ということばがありますね。これは、京都を見物したふりをする人に白川のことを尋ねたら川のことかと思って、夜中に船で通ったから知らぬと答えた話から嘘がばれた。したがって、 よく眠っていてなにも気づかないことの故事のようです。

 この道の先には白川石を切り出した清沢口石切り場跡があり、この周辺には良質の白川石を切り出す石切り場があったと伝えています。ここまでの登り道周辺に苔むして散在する岩石たちは、どうやらその名残りのようです。
 このように、白川に住む男は石切り場で働き、女は白川砂が花の栽培に適することから、花を育てて独特の装束で街中を花売りに歩き、また御所に花を献上することで、特別な朝廷認可の地位を得ていたといわれています。この女性たちを「白川女」と呼ばれていました。京には他に大原女、桂女などの仕事姿の呼名がよく知られていますね。

 道はほどほどに荒れてはいますが、歩くには支障ありません。でも結構きつい登りが続きます。汗しながらの頂は瓜生山(301m)でした。この頂は瓜生山城、北白川城とも呼ばれ、室町時代の城跡で応仁の乱時代も重要な戦場と化し、将軍たちがいろいろ籠もったとの歴史書への記録も残るようです。

 60番道標で旧コースと合流して、どんどん登り上げていきます。61番分岐から薄い踏み跡へ上がると、白鳥山(北城出丸跡)で見はらし台とあるも、樹林成長により展望はありません。そのまま進むと本線に合流します。
 このコースには北白河愛郷会の説明板がいくつもありましたが、その中に「史跡の道で、自分も歴史の中の人物になったような空想も楽しいですが、自然の道でいろんな木にさげてある札を見て、これは何の木、あれが何の木と覚えながら、幾種類の木が見分けられるか試してみるのもいいことです。」とまさに常々私が話している言葉を見つけたようで、植物好きな友人に出合えたように思え、感激のコースとなりました。。

 さて、その後も相変わらず結構きつい登りが待っています。標識66は左の「てんこ山」への分岐ですが、平らな林道をたどり、そして石の鳥居が目に飛び込んできます。ここは五差路でこの鳥居は弁財天二の鳥居と地図上にあります。この先き左に立つ67番道標からトレイル道は左へ急降下して音羽川源流の浅い渡渉ですが、これを入れて3本の沢を越すのも結構上り下りで汗します。

 登り途中には69番道標で比叡山への京都からの本道ともいえる雲母坂などとの分岐点です。ここには南北朝時代遺跡の水飲対陣跡の読みづらい碑がたっています。この地は足利尊氏に追われた後醍醐天皇が叡山に逃れ、近臣千種忠顕公が足利軍を迎えて陣を張った跡とのことです。これより北東に上がればすぐで京の西山連山や市街が大展望台となっています。

 この後は叡山ケーブルへのゴール地点ですが、これが最後のきつい登り道でした。あせらずゆっくり登らざるを得ません。72番から左へ急坂を登ると千種忠顕公戦死之地の立派な碑が祀られていました。

 道沿いの木々もちらほらと紅葉も始まっていますがこれからでしょうか。カエデ類やシラキにカツラなどが先行しているようです。

 こうして、ゴールの74番道標のケーブル比叡駅には下見ですから2時間半もかかってはいませんでしたが、本番では説明、休憩などと倍はかかることでしょうか。でも歩き足りなくてもう少し足を伸ばし、大比叡の三角点(848.3m)まで踏んできましょう。
 スキー場跡地横からの往復で、下山は行程どうりの叡山ケーブル利用も初めてでしたが、山麓駅などのチエックも仕事です。こうしていつもより疲れた下見山歩きとなりました。フゥ~

 次のケーブル山頂駅から大原戸寺まではこちら、前の蹴上から北白河仕伏町はこちら                ホームヘ