京都東山 京都一周トレイル(2) ’14.10.7 晴

 しばらく案内等に忙しくしていましたので、HPの更新から遠ざかってしまいました。さて、京都一周トレイルです。前回のゴールは蹴上の30-2標識のねじりマンポでした。これは覆工レンガが螺旋形に捩じりながら貼られていることによる名前です。今回はそのねじりマンポに関連ある、インクライン地点からがスタートとなります。この地はインクライン等を記念して公園化されており、春は見事な桜の花見で賑わう場所でもあります。

 さて、そのインクラインにからむ話題にふれてみましょう。この公園に立つ説明によれば、時の京都府第三代の知事となった北垣国道によって、都が東京に移った明治2年ころより、にわかに衰退気味となった京都の衰微を回復しようと、琵琶湖疏水の実現に向け奔走することとなりました。。

 ところがその琵琶湖疎水の実現は容易ならしめざる難工事でしたが、その時現れた新進気鋭の設計施工の技師、田辺朔郎によって当時としてはめずらしいインクライン(傾斜鉄道)などの琵琶湖疏水の実現となりました。
 時は明治18年6月着工で明治27年9月完成という長期間による大工事となったのでした。すぐれた先見性で世界で二番目となる水力発電所を成功させ産業動力源とするとともに、わが国初の路面電車を走らせた明治23年4月晴の通水式を迎えた田辺朔郎は28歳でありました。京都市はこの公園に、その栄誉をたたえ、田辺朔郎博士の像を建立したのであります。

 そばにはインクラインのレールが記念に残され、その周りの石畳は時の市電に敷かれていた敷石が利用されています。そして台車とともに船も残されたままで見ることができます。もちろん、関電の蹴上水力発電所は今も現役で稼働しています。

         
レールと石畳、右はダクタイル管     台車と船    水力発電の配管

 そして琵琶湖の水は直径1.65m、長さ4m、重さ5トンのダクタイル鋳鉄管という直管や異形管の管材料を組み合わせながら、今でも8kmも先の山ノ内浄水場まで導水するなど、市民の生活になくてはならない琵琶湖疏水となっています。琵琶湖疏水の水は水力発電や京都市の水道だけでなく、御所、平安神宮の庭園はじめ、東西本願寺等まで多くの寺院庭園にも引かれているといいます。

 そして、大神宮橋から見下ろす疎水には蹴上浄水場のレンガ色の建物が取水設備で立ち並び、左奥には疎水第三隧道西口にある扁額題字には明治の元勲三条実美の揮毫である「美哉山河」とあるようです。ちなみに疎水隧道入口にはすべて扁額が挙げられ、すべて石刻であるが、なかでもねじりマンポだけがなぜか、粟田焼であるようです。

 橋より奥へは急坂をゆったり登りましょう。そして日向大神宮です。ここは元伊勢ともいわれています。縁結びの神としも崇められ、社殿は伊勢神宮と同じ檜皮葺で天照大神はじめ、女神を祀る内宮、男神を祀る外宮に天岩戸まであります。

             
日向大神宮素木鳥居様式の二の鳥居     伊勢神宮鳥居様式の三の鳥居    日向大神宮の外宮    内宮

 このように一周トレイルは新コースを行けば、この後は急坂も旧ルートのようではなく安全でしょう。ただ、木の根道が続きますので根っこに足元取られないように歩きましょう。するとしばらくで七福思案処の分岐は樹林の中ですが、ベンチに腰を落としてしっかり思案して進みましょう。もちろん、大文字山方向の標識を目指します。

 次第に登りとなって汗もかきます。ゆるやかな稜線歩きとなって、平安神宮など岡崎や、御所に二条城あたり、それに愛宕山も見えてホッとします。そしてようやく分岐に立つ一周トレイルの45番道標です。ここでは左折が本ルートとなるのですが、せっかくですから本日の高みでもある大文字山(465m)へ足を伸ばしましょう。山頂は3分で三角点峰でした。3等三角点にタッチして西山方面の山並みを眺めます。うっすらと生駒山、そして西山のポンポン山に小塩山そして山上ケ峰に牛松山に愛宕山などが見えます。

 山頂から引き返して45番の四つ辻から右折ですが、その道標にはこの先台風の影響で土砂崩れもあって、注意してとの張り紙ありです。でも談合谷はきれいに係の方でしょうか、手入れされており、なんなく鹿ケ谷の山麓へ降りれました。
 途中には「俊寛僧都忠誠の碑」が立っていました。俊寛僧都はここ鹿ケ谷の山荘で平家打倒の密儀をしたのですが、発覚してしまい島流しにあったようです・・・。平家を打とうとの密議から談合谷と呼ぶようになったのでしょうか。

 レリーフから少し下ると「楼門の滝」ですが、落水はもう少し欲しいところです。さて楼門とは二階建てで屋根のある門が楼門とあるのですが、こちらの滝は、目をこらしてを見ると、どうやら二段に分かれて流れ落ちる滝のように見えることからの名のようですが・・・?、苔むす石段は近道ですが急坂です。ロープもあるなど十分注意が必要なようです。バランスに不安な方には右側からの道が心配は少なそうです。

 左手に浪切不動尊祀られる瑞光院を過ぎれば右に鹿ケ谷山荘あり、ここで平家打倒の密議がなされたのかな・・?、などと思いながら、急な舗装路より右前方に左大文字の大がチラッと目に入りました。左大文字といえば水上勉「金閣炎上」や三島由紀夫の「金閣寺」が思い出されます。これまで年に一度はページを追っている愛読書ですが、なぜか、今年はどうしたのでしょう・・・やっぱり雪の金閣寺を目の当たりにしないと本に目が行かないのかも知れません。

 さらに急坂を下れば標識48が霊鑑寺の向かい左角にあるのですが、トレイルはここを右折して北へ向かいます。この角の霊鑑寺は後水尾天皇の皇女を開基として創建され、代々皇女が住職を務めて、谷の御所とも呼ばれています。また名椿が多数あることでも有名であります。

 しばらく歩けば安楽寺があり、ここは浄土宗の開宗時に「承元の法難」の発端となった後鳥羽上皇の女官、鈴虫、松虫の供養等で知られる寺であります。門前はなだらかな石段がならび、若い女子観光客が引きつけられそうな雰囲気の構えではないでしょうか・・ 

 
 また、しばらくで、今度は大文字火床の西麓となる地には法然院が深い森の中に佇んでいます。江戸時代初期の京としてはそう古くはない寺とはいえ、その門前は佇立しています。しかし、数寄屋風の茅葺きの山門を入り、庭園など眺めて散策すると、次第に心落ち着く雰囲気となって、山歩きの後の余韻を楽しむにはあまりにも贅沢さを感じることでしょう。

 法然院のHPによる歴史については次のような解説があります。

 『鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。1206年(建永元)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。江戸時代初期の1680年(延宝8)、知恩院第三十八世萬無和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれた。

浄土宗内の独立した一本山であったが、1953年(昭和28)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となり現在に至っている。通常伽藍内は非公開であるが、毎年、4月1日から7日までと11月1日から7日までの年2回、伽藍内部の一般公開を行っている。 』


 まず茅葺の山門を潜ると境内には白砂壇が目に入ります。法然院のHPによれば次のような記述となっています。「両側に白い盛り砂がある。水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味している。」以下小画像クリック

 続いて講堂です。同じくHPでは「もとは1694年(元禄7)建立の大浴室であったが、1977年(昭和52)に内部を改装し、現在は講堂として、講演会・個展・コンサートなどに利用されている。 」

 次に本堂正面の石段上には地蔵菩薩像が安置されています。HPによれば「この尊像は、1690年(元禄3)、忍澂和尚46歳の時、自身と等身大の地蔵菩薩像を鋳造させ、安置されたものである。」

 なお、法然院は境内の拝観は無料であり、6:00から16:00の拝観時間には、自由に境内を参観できます。また、通常は本堂等の建物内は非公開であり、建物内の有料一般公開が春と秋の年2回行われています。


 次は哲学者西田幾太郎らが好んだ疎水べりの散歩道である哲学の道となります。春の桜や秋の紅葉時にはごった返す散歩道ですが、紅葉前のこの時期には限られた外国の方がちらほらくらいで、側の土産物屋も閑古鳥が鳴いているようでした。

 哲学の道沿いには西田幾太郎の歌碑がおかれていました。

 ハイシーズンにそぞろ歩きする時は、人混みで水の流れに気もいかないのですが、今、それにしても流れる疎水の水はどうしてきれいな流れとならないのでしょうか。観光客を待つ気持ちの足並みが揃うことが容易ならしむることが伺えるようです。

 銀閣寺へはカットし、銀閣寺道交差点右の浄土寺橋から右折して大文字焼きの大の字を眺めた後は、春の枝垂桜の美しさが忘られない北白河天神宮で頭を垂れ、今回のゴール北白河仕伏町のバス停となりました。

         
 大文字焼きの大の字を    北白河天神宮の明神鳥居様式    バプテスト前の北白河仕伏町バス停

次の北白河仕伏町からケーブル比叡まではこちら、前の伏見稲荷から蹴上まではこちら                    ホームヘ