京都西山 裏山ハイキング ’15.5.14 曇り

 時ならぬ台風6号が大騒ぎの天気予報とまでは行かずに大きな災害とはならず去ってくれた。まさに台風一過の青空が広がった13日、珍しく相棒から明日は天王山に連れてって!、と声がかかった。こちらも来週一週間の仕事予定の予習にちょっと一服したいところだったので、それなら久しぶりに一緒に歩こうかとあいなった。相棒も天王山へはたまにハイク仲間とは登っているようだから、足の方は大丈夫だろう。

 我が家からは調子八角の西山天王山駅を通って、小倉神社からの登山口が昔からの道となっている。この小倉神社は桓武天皇の平安遷都に合わせ、鬼門除けとして鎮座したといわれ、豊臣秀吉も戦勝祈願したといわれている。また、昨今パワースポットとして名高い神社でもある。まずは小倉神社にお参りしよう。家族の健康と多幸をお祈りした。

 この神社そばの登山口からも三か所の道が分かれている。今回はカミさんのご要望によって、子供を連れて最初のファミリーハイクとして登った思い出のコースはどうかとのご提案である。ハイハイ承知しました。さぁ、これからいよいよ山道に入る。すぐで道々にアカネ科のアリドオシが満開であった。なんとその株が数えきれないほど林立していたのだ。思わず興奮状態であった。つられて花好きな相棒共々でデジタイムだ。

 
アリドオシ(アカネ科)

 このアリドオシは一風変わった花である。純白の一見清楚な花に見えるのだが、どっこい下手に手を出すと、長くてするどい棘を持っていることを知らせるのだ。そして秋には赤くて小さな実を付ける。名前は、このトゲが蟻をも突き通すという説と、実が翌年まで持つので「ありどおし」という説があるという。
 さらにいえば、一両という別名もあるのだ。これに関しては、実は他にもあるのだ。十両がヤブコウジ(ヤブコウジ科)、百両がカラタチバナ(ヤブコウジ科)、それにセンリョウ(センリョウ科)、マンリョウ(ヤブコウジ科)と実に目出度い樹種名の一員なのだ。

 そして、急坂が出てきたが、またまた花が両脇の道沿いに並んでいた。スイカズラ科のコツクバネウツギであった。このツクバネウツギ属の仲間は4種あるのだが、ポイントは萼の数であろう。コツクバネウツギは2~3個であり、ツクバネウツギは5個が同一で、オオツクバネウツギは5個の内、ひとつだけが小さいのが特徴である。また中部から関東方面に分布するといわれるベニバナノツクバネウツギは花も萼も濃紅色で5個とも同じ大きさである。

     
コツクバネウツギ(スイカズラ科) 
 

 樹林帯から次第に日がさしてくるような斜面にはバラ科のキイチゴの仲間であるコジキイチゴが満開となっていた。この種はキイチゴの仲間では遅咲きの種であろう。ともあれ一番の特徴は茎に紅紫色の腺毛が密生していることで同定できる。でも同じような毛の多い種はエビガライチゴ、オオバライチゴもよく似るのだが、その場合は葉、托葉、刺などの違いを見る必要があるのだ。もちろん実時にはその実の色合いや姿なども同定のポイントとなろう。このようにキイチゴの仲間は全国に30種近くあってすべて把握することは容易ならないので頭が痛い。

     
 コジキイチゴ(バラ科キイチゴ属)   茎に紅紫色の腺毛が目立つ 

 その後は登り一辺倒となってきて、にわかに二人して黙々と進むのみとなった。なぜか私は先月にも読んだ本を思い出していた。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい 」。夏目漱石の「草枕」の有名な冒頭の言葉である。夏目漱石の生涯で、「草枕」は初期の頃の明治39年の作品であるという。

 自分自身の生きざまを相棒と歩きながらだが、ひとりこう考えていた。智が働くほどの智はもうとうない。それに情はほとんど棹さしてばかりの人生だったのではないのか。もちろん意地を通しながらなのに、窮屈を感じないほどの情けない身ではなかったのだろうかと・・・。

 ままならない社会と自らの思惟への相違、そして、自分にとっての正義と他人、社会にとってのそれとはままならないのが世間ではないのか、などと考えながら山道を登っているのであった。ふたりして歩む道なのだが、相棒はどう考えているのだろう。こんな心の葛藤もたまには楽しみのなかに取り入れるのもいいだろうとしたのだった。

 そんな歩きだったが、いつのまにやら稜線が続いている。そして、目につくのはコツクバネウツギの満開時に出合えた喜びと変わっていたのである。そうだ、仲間でもあるキバナツクバネウツギはコツクバネウツギより黄色さが強く、葉の大きさが4~6cmほどと大きなものをいうと図鑑にあるのを思いだしながら探そう。葉はたしかに大き目なものはあっても、肝心の花色が黄白色ばかりで、濃い黄色の花は探すことはならなかった。

 そうこうしている間に標高270mほどの天王山の里山である頂だ。だが、天王山といえば。「天下分け目の天王山」として有名な秀吉と光秀が戦った山崎合戦の舞台となった山である。我らは新緑麗しい彩美の景色が楽しめる山崎城跡で、古の戦国武将秀吉と同じ目線で昼飯を二人並んで食べるのも珍しい。もうこのようなの時も最後となるのだろうか。イヤ、まだまだ互いに元気でありたい・・・。

 ゆったり心遊ばせていると雨粒が落ちだした。いけない、そろそろ下山にかかろう。そして酒解神社まで降りてくれば一気に歴史的な神の地だ。ここは天王山の山名の由来となった「牛頭天王」を祭神とする大山崎地域の産土神さんだ。日本最古の木造櫓として有名な本殿横のお輿櫓は、鎌倉時代前期の建築で重要文化財に指定されているほど貴重な神社である。

 すぐにヤマハハコが多数咲き、そばにはヤブジラミもひっそりとシラミに見立てた果実もついて小さな白花の花が咲き、ニガナ(キク科)やその変種のハナニガナも黄色花が賑やかにいっぱい咲いている。二人してこれらをしっかりと葉などの相違点を見ながら観察会としているのであった。

     
 ニガナ(舌状花ふつう5個)    ハナニガナ(舌状花8~10個と多い)

 そして、宝積寺手前で左折し、大山崎山荘横からJR山崎駅へと向かって降りたのだが、夏目漱石が大正4年にこの山荘を訪ねたことの碑を見つけて、色めき立っている漱石ファンの自分がいた。この時の漱石の句が「宝寺の隣に住んで櫻哉」と刻んであった。

 碑の駒札には「文豪・夏目漱石が大正四年四月一五日、桜花爛漫の大山崎山荘を訪れた。予てより山荘の名前を有名人に名付け親になってほしいと願っていた加賀正太郎の招きによっての訪問である。漱石一行は国鉄京都ステーションから山崎駅まで汽車で向かい、下車後夏目先生と奥方は籠に揺られて山荘の門をくぐった。正太郎は夏目一行を歓迎し、広い庭で昼食に「関東煮」や「おしるこ」を御馳走した。
 その後、隣にある宝積寺に行った一行は、住職から寺にまつわる面白い話や宝物を見せてもらい楽しい一日を過ごした。漱石一行は正太郎との再会を楽しみに山荘を後にした。後日、漱石から届いた礼状に、「宝寺の隣に住んで櫻哉」の一句が添えられていた。当時の山荘には「憩いの桜」という見事な枝振りの桜があり、漱石もその桜に魅了され一句をしたためたのであろう。」

 私たちふたりは山崎ステーション前のコーヒー屋で、心をそれに喉も潤しながら、花といい、山といい、最後に漱石登場で今日の天王山はいつになくよかったネとの声を聞きながら、ご機嫌な気分で萌黄色の山肌を見上げるのであった。

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