北攝   太 閤 道   H18.1.10   晴れ

 京都西山山系が南よりに消える山崎の天王山のお隣の山である若山をピークに持つ道、それは戦国時代に豊臣秀吉が明智光秀との戦いのために走り抜けたと言われる太閤道だが久しぶりに歩いてみた。
 今回は昭文社エアリアマップどうりのコースを選び、阪急高槻駅から京大農場経由で磐手橋まで40分ほど歩き、電気部品工場前から取り付いた。

 

 

 京大農場近くから見る太閤道は山というより丘でしょう・・

 
 取りつけ口近くには金竜寺の説明板がある。なんでも延暦9年(790)に安倍朝臣兄雄が創建し、一時は隆盛を誇ったが、戦火、再建、失火など盛衰を繰り返した後、江戸時代には桜の名所として有名であったようだ。
 だが、何時しか無住寺となり、昭和58年心ないハイカーの火の不始末で全焼したという。その太閤道への前半はお寺の参道を行くのだが、電機部品の工場の東側にその金竜寺への参道があり、二丁と刻まれた石標が立っている。

 薄暗い谷筋に入るとシダ類が多い。今日は一年ぶりにシダ類の復習でもしようと早速に都合よく比較的分りやすいヤブソテツの仲間が出てきたのだ。
 葉数の多いヤブソテツ、葉の対が少なく耳垂も発達するヤマヤブソテツが見られ、それにこれも分りやすい頂羽片がはっきりしているハカタシダに姿ですぐ分るベニシダが多くあり、やや分りづらいがオニカナワラビにホシダやフモトシダも見られた。
 またイノモトソウ、オオバノイノモトソウの翼の有無に、イワガネソウとイワガネゼンマイの葉脈が縁まで達するかしないかなどを同行者に同定ポイントとして話しながら観察した。
 しかし久しぶりのシダ観察で記憶が薄くなっていることを痛感し、当分はシダ類と友達になることの必要性を余儀なくされた。 

 

 

 金竜寺あたりまでの登り道ではアベマキ、クヌギ、コナラなどの樹皮や枯葉などを見ながら歩き、今は寺の跡形もないベンチで小休止であるが、足元にはヤブランの黒い実が多数見られた。

 ヤマザクラやカエデが多い境内跡らしきところを後にして稜線に出ると、ソヨゴの赤い実をつけた樹木があちこちで倒木となっているのを痛々しげに見ながら歩いた。根をもっと深くするような進化を望むばかりだが・・付近にはクロソヨゴがないだろうかと探しながら歩いたが見当たらなかった。

 さらに進むと「北攝一の展望台」の案内につられて東側に出ると、目の前にはやや雲ってはいたが淀川が大きく蛇行して川面がきらきら輝いている。手前には国道171号線沿いの工場群や河川敷のゴルフ場、川向こうには枚方の街並みが遠望でき必然的にここでお昼となった。

 今日の参加者は時を不足としていない者ばかりのようだ。楽しくおしゃべりが続いている。だが気がつけば風も出てきたようで寒くなったら誰いうともなくザックを肩に進むべく態勢が整った。

 

 

 わずか200mほども歩けばそこには傷の全くない15cm角の御影石の3等三角点(315.5m)が埋まっていた。
 これだけ傷のない三角点も久しぶりに見た感じだ。いつまでも心無いいたずらのないのを願うばかりだ。


 タッチした後はほとんど水平道をのんびり周囲の樹木を見ながら進むも、ことさら目新しいものは見当たらずなんとなく淋しい。
 過去数え切れないくらい通った懐かしのゴルフ場に着いたが、このフェアウエイは確かアウトコースいやインだったかな、、などと思い出そうとしても忘却の彼方であり悲しい限りであるが、足を洗った期間がそのまま山歩きと化したのである。
 そのフェンス沿いに歩くとツブラジイとアラカシの群生地という看板の立つ小ピークについた。しかし残念ながらこれら常緑樹があたり一面を鬱蒼と暗くしており、気分的にもスカッとはしがたい。いそいそとそれらの大木を横目に急な階段を下って降り立った境内は若山神社である。

 植物通の友から若山神社付近にもいろいろ珍しい野草が見られるよと情報も頂き、ほうそれはいいお話しありがとうございます、是非それらの花時にはお邪魔したいと心した。
 ご一緒いただいた3名の皆さんお疲れ様でした、いや疲れなどなかったですよね。こんな初級ハイクではね。またよろしく・・~笑い  

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