但馬 天空の竹田城 ’13.12.8

 急用が発生し、久しぶりに郷里の但馬へ帰ってきました。用事をすませてこのまま帰るのもと、天空の城として近年ブームとなっている竹田城跡を見物してきましたので、私なりに纏めてみました。

 
南千畳方面より

 まずはあらましからです。

雲海に浮かぶ「天空の城」として知られる国の史跡である「竹田城跡」は昨年あたりより大フィーバーとなって今年の来訪者は24万人を確実に超えるようです。朝来市の調査によると、竹田城跡の来訪者は平成17年度=1万2千人▽18年度=2万人▽19年度=同▽20年度=2万3千人▽21年度=3万5千人▽22年度=5万2千人▽23年度=9万8602人▽24年度=23万7638人▽25年4~9月=22万1千人。ということで平成18年度あたりから次第に増え始めて、24年度からは爆発的に増加している。
24年4月に新設された同市竹田城課によると、18年に財団法人・日本城郭協会が選定する「日本100名城」に選ばれたことが大きいという。もちろん、映画でのロケ地利用やTV、新聞等の報道により、さらに世に知られることとなったとも考えられている。同市では人気増加による各種の問題も発生していることから、本年10月1日より来訪者に観覧料300円の徴収を始めたが今のところ問題なく来訪者は納めているとも報道されている。」

竹田城(古城山)は353.7メートルあって、その頂上に築かれた山城で、城の曲輪や堀などの配置、また、設計の意味をいう縄張りは、南北約400m東西約100mといわれ、この点からのうつくしさも大きな人気のひとつとなっている。
また、廃城から約400年を経ているが、自然石を巧みに利用した石積み方法で、近江穴太衆という職人集団の手による穴太積みの石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城遺構として日本屈指の規模となっている。」

     

幽玄で神秘的な自然の演出を受けて、竹田城跡はいつしか「天空の城」と呼ばれるようになり、関西だけでなく全国からの城巡りの愛好家や観光客の足が絶えない。これは城下を流れる円山川から深い霧が立ち込め、雲海となって周囲を取り囲み、天空に浮かび上がるかのように見えることから「日本のマチュピチュ」とも呼ばれるようになってきて、近年ますます人気に拍車がかかっている。」

 次は城の歴史の移ろいとしましょう。

「嘉吉3年(1443)に但馬の守護大名・山名宗全が基礎を築いたとされる。そして太田垣氏が七代にわたり城主となったが、織田信長の命による羽柴秀吉の但馬討伐で天正8年(1580)に落城した。最後の城主・赤松広秀が石積みの城郭を整備したといわれている。」


 今回は訪れた時間帯が10時前と遅すぎ、霧は完全に消えてしまっているのは承知のうえでしたが、城跡を巡って兵どもが夢のあとを偲びながら、幾多の人間模様のドラマがあったことだろうと山名宗全、太田垣氏、赤松広秀などの武将に関する本でも読んでみようかな・・・と思っているのでした。

 そして城塞の周りを囲むように山並みが続いていましたが、東方面の金梨山、朝来山に粟鹿山が一番目につき、南には大路山、青倉山に遠く段ケ峰が見えます。そして西には大倉部山、そして北には西床尾山、東床尾山などが手元の資料で見渡せ、素晴らしき景色を楽しめたのでした。

 しかし、漱石の坊ちゃん流を借りれば、『青空を見ていると、日の光がだんだん弱くなってきて、少しひやりとする風が吹き出した。線香の煙のような雲が、透き通る底の上を静かに伸ばして行ったと思ったら、いつしか底の奥に流れ込んで、うすくもやを掛けたようになった』が、わずかに上からあたるものが感じられ、山頂の城跡を辞することとせざるを得なかった。

     

 次回の再訪時にはこの山城跡より倍もある、目の前の757mの大きな山体の朝来山(↑右画像の右の大きな山)へは是非登って、麓の立雲峡から霧に浮かぶこれぞ「天空の城」をこの目で確かめたいと思うのでした。

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