余呉 撤退の下谷山 '12.12.23

 今冬初めてのスノーシューで滋賀と福井の県界尾根の余呉トレイル中央分水嶺を下谷山まで歩いてみようと参加してきました。折からのクリスマス寒波に見舞われ、予報どうりの午後の雪と寒風にしごかれてきました。いつものように余呉高原スキー場前の栃ノ木峠の急登が取りつきですが、歩き始めは青空に日がさす絶好の天候だったのです。(10:00)

 ところがスノーシューが初めての方もあったりして、この急坂や雨上がりの表面の固まった新雪とはとうていいえない雪質にも手間取ってしまい、早くも相当のタイムロス発生です。こんな調子ではとても下谷山までは無理だろうと最初からあきらめムードでした。仕方ないですよね、いろいろな方が参加ですから・・・

 ということで今回のレポの内容は山歩きというより歴史散歩のレポでしょうか?・・・(笑)、まずは栃ノ木峠で古家が立っていたと思われる跡地の斜面に座っていた小さな石標を見て、これは歴史を調べてみようと興味ある写真(↓右端)です。

向いにスキー場
ケヤキの古木
古い石標座る

 ところが、写真でもその刻まれている文字が定かではありません。「文政十年九月・・證屋覚賢・・本覚・・?」くらいの字句しか読み取れないのです。證屋覚賢なる人物?を調べてみるもその謂われも不明です。しかたなく、その時代は?とのことで、文政年間についてnet情報で調べてみました。

 まずは文政年間は江戸時代後期の年号で、1818年から1830年までのようです。そして文政年間の前の年号の文化年間も合わせて、第11代将軍徳川家斉(いえなり)治下の文化・文政年間(1804‐30)を中心とした時代を略して化政期ともいうとのことです。
 また,家斉が1837年(天保8)将軍職を家慶(いえよし)に譲り西の丸に退隠した後も,大御所と称して実権を握っていたため,将軍時代を含めた家斉一代の治世を大御所時代とも呼ぶようです。またこのころの年代には地図の伊能忠敬没、後の活躍者となる西郷隆盛、勝海舟らの誕生やシーボルトの出島に着任などの時代背景です。
 ということで今回出合った石標は、文政十年九月と刻まれていることより1827年ですから、今より遡ること185年前の時代物のようです。 


 なお、栃ノ木峠についてもふれてみましょう。この峠は越前と近江の国境、標高は538mにある峠です。「酌子峠」、「虎杖崩」ともいわれますが、峠の頂上付近に栃の木が群生していたため、この名前が一般化したといわれています。今も頂上に樹齢500年と言われる大木が残っているようで、現在は国道365号線が通っています。

 天正3年越前・加賀一向一揆を平定した織田信長は論功行賞を行い、越前49万石を柴田勝家に、大野郡のうち3分の2を金森長近に、3分の1を原政茂に、府中の周囲2郡を不破光治・佐々成政・前田利家に、敦賀郡を武藤舜秀に任せ、勝家を北ノ庄において北国の総轄を命じました。
 勝家は北ノ庄を整備する一方、天正6年北ノ庄から信長の安土城へ参勤するため最短距離の栃ノ木峠を越える間道を大改修しました。そして本能寺の変後、お市が柴田勝家に再嫁した時には、三姉妹を連れてこの峠を通り、勝家の元に嫁いだといわれています。

 さぁ、この後は戦の物語として世にも有名な賎ヶ嶽の合戦です。

 天正10年本能寺の変で織田信長が自害し、翌年には羽柴秀吉、柴田勝家の対立が表面化、いよいよ戦への突入となってしまいました。柴田勝家軍の佐久間盛政・安政、柴田勝安、前田利家、不破勝光、原政茂、金森長近、徳山秀現が北ノ庄を出陣しました。やがて勝家も北ノ庄をたって近江伊香郡柳ヶ瀬の玄蕃尾城に本陣を構えました。

 勝家軍総勢2万8,000人に対して、秀吉軍は、かねてより勝家軍を阻止すべく羽柴秀長・堀秀政等の軍総勢2万5,000人を余呉湖周辺の田上山に砦を配置していました。一度は秀吉に降伏した岐阜城の織田信孝が兵を挙げたため、秀吉は4月16日、自ら兵を率いて美濃へ向かいました。

 これを察知した行市山の砦より佐久間盛政は秀吉方の部将中川清秀の守備する大岩山まで密かに侵入し奇襲攻撃を敢行する作戦を勝家に進言し、勝家は大岩山攻略の後は直ちに兵を返すことを条件にこれを許可しました。4月20日未明、佐久間盛政・安政など8,000人の軍勢は、敵に察知されることなく大岩山を攻撃し守将中川清秀を討ち取りました。さらに賎ヶ嶽を守備していた桑山重晴も降伏させるまでに追い詰め、勝家軍の奇襲は成功したかに見えました。この戦が賎ヶ嶽の合戦の口火をきったわけです。
 この戦の優勢な推移に佐久間盛政は勝家との約束を無視し大岩山で一夜を明かすことにしたのです。大岩山に駐留したのは、美濃へ出兵した秀吉軍が、まだ引き返しては来ないだろうと判断したものです。

 4月20日昼過ぎに大岩山攻撃を知った秀吉は、美濃大垣城より52kmの道程を、わずか5時間で引き返してきました。当時では信じ難いような機動力を発揮し、翌4月21日午前2時頃から2万人の軍勢を率いて佐久間盛政追撃戦に移りました。佐久間盛政は、なんとか権現坂まで撤退しましたが、後世、賎ヶ嶽の七本槍として知られる秀吉軍の猛兵の追撃を受けた柴田勝安軍も大きな打撃を受け、盛政軍に合流しようとしていました。これがのちに世に言う秀吉の「美濃大返し」です。

 しかし、昼前に盛政軍の背後で陣を構えていた前田利家・利長父子が兵をまとめて戦場離脱を始め、次いで金森長近、不破勝光も戦場から遁走を始めました。これを機に勝家軍は総崩れの状態となり、狐塚で堀秀政・羽柴秀長軍と戦っていた勝家本隊も兵が減少し、秀吉軍と決戦を挑むことができない状態になりました。
 そこで家臣の毛受勝照が勝家の金の御幣の馬標を受け取り、身代わりとして奮戦している間に勝家は栃ノ木峠を越えて北ノ庄へと落ち延びました。このように皮肉にも柴田勝家が大改修した栃ノ木峠は賎ヶ嶽合戦において敗走する峠道になってしまったのです。
(以上栃ノ木峠以下はnet上での「街道の風景」を参照させていただきました。)

 

 さて、スノーシュー歩きの方ですが、時間はかかったのですが我ら山歩き鈍足隊も、なんとか稜線に上がり、わずかばかりの雪景色を眺めたり、アニマルトラッキングでこれは熊の足跡かな?とか楽しみながら歩きます。そして巡視路分岐あたりまで来ると青空から雲雪が怪しくなりだしてきました。
 さぁ、急ごう、二次林の若いブナの木がどこまでも続く山道もすばらしいのですが、寒さとどんよりの雲雪から薄暗く感じ、そう景色や雰囲気も納得できかねます。口数も少なくなってただ黙々と歩を進めるばかりです。

 そして栃ノ木峠より歩き始めて2時間半ばかりでようやく音波山でした。南に大黒山に妙理山や東に上谷山がわずかに白くなっており、手前に少しの頭を見せる下谷山でした。さぁ、遅くなったが昼食としましょう。といっても寒さのためにそう長くはじっとしていられません。それでも仁王ブナの古木を眺めながらの美味しい余呉トレイル弁当に舌づつみです。

南の大黒と妙理 音波山の仁王ブナ 東の眺め

 ここで、さぁ、出発だと用意していると、「この時間です。残念ながら本日の下谷山までは難しいので、手前902ピークまでとしましょう」の声です。やむを得ないだろう、と皆さん静かに歩きます。これだけ足が揃わなければ致し方なかろうと進みますが、いよいよ雪も次第に強くなってきます。そして902手前小ピークを踏むと撤退となりましたが、追い討ちをかけるように降り続く雪も強くなりだします。

 帰りは北側にやや回り道の下りから、そこそこのブナの古木が並ぶ森まで訪ねてみます。今回の通常のコースには大木はそう多くは目立たないのですが、下った谷あいには珍しく多くの古木が見られたのでした。そしてやや急坂を登りかえして音波山下の仁王ブナへ登り詰め、そのブナへ最後の別れをしてからは順調に歩いて、ベルク余呉スキー場跡の駐車場へ16時に降り立つことができ、なんとかヘッデンの世話にはなりませんでした。


歩いた軌跡を同行のNさんよりいただきました。往路が赤線、復路が青線です。

ホームヘ