紀伊 中将姫ゆかりの雲雀山 '12.11.18

 紀勢本線の紀伊宮原駅に降り立つ。のどかな田舎駅が郷愁を呼ぶ。熊野古道の渡し場跡より宮原橋では寒風すさび、前方には可愛い雲雀山も眺められる。今日のコースのメインは、雲雀山で和歌山県有田市にある山、万葉集に多く詠まれた「糸我の山」の一角にある。周辺には中将姫ゆかりの庵の跡や親子対面岩などが点在している。また、西麓には熊野古道が通じている。

 奈良時代、藤原豊成の娘として生まれた姫は琴の名手で法皇より中将の位を授けられたが、継母の妬みによって京の都を出て熊野古道をさ迷ううち、有田の糸我にある雲雀山に逃避することになる。やがて継母の知ることになり、刺客の武士を送られるが、討とうとした武士は中将姫の人徳に深く心打たれ改心して、妻の松女とともに仕えたという。その武士の名は伊藤春時でその後に僧侶となって、名を得生と改めて雲雀山の麓に草庵を開き、以後、中将姫の身辺を守ったと伝えられている。これが世に名高い雲雀山得生寺であるのだ。
  

 

 寺内に立つ得生寺由来の説明板を読み心洗われるような気持ちとなって、すこし行くと角の熊野古道と大きく掲げた看板が目立つが、その境内は糸我稲荷神社、この神社は古い歴史をもち、明神鳥居、稲荷鳥居が並んでいる。
 ちょうど七五三のお参りがなされ、長閑な雰囲気である。そして糸我稲荷神社の隣に「くまの古道歴史民族資料館」もあり、入場無料、古き展示物も自由に拝観でき、トイレ休憩とさせてもらう。

 さぁ、いよいよ雲雀山へ登ろう。といってもみかん畑のモノレール道をわずかだ。でも結構な急坂で寒いのに一汗かくこととなる。その雲雀山は中将姫が15才の春、父藤原豊成公が熊野詣での帰りにこの雲雀山で狩りをして、計らずも親子の対面となり、そのあたりには石の表示も立てられている。
 姫は父と会った後に大和当麻寺で出家し、29歳の短い生涯を終えたと伝えられており、得生寺では姫の命日にちなんで毎年5月14日に二十五菩薩練供養会式が執り行われ、今では和歌山県指定無形文化財に指定もされているようだ。

 わずか208mの山頂にはウバメガシの大群落に囲まれた得生寺の奥の院も祀られ伊藤ケ嶽との石標もある。ころぶ石の上から眼下には有田川や宮原の街並みが並び、その背には海南からの熊野古道を越える山並みも広がって見える。足元のかたわらには白いリュウノウギクも中将姫を想うようにひっそりと咲いていた。

         リュウノギク

 一本立てた後には山道を進み糸我峠だ。足元には、まだコウヤボウキの残り花があちこちいっぱいに見られ、上を見上げるとアケビの実がたくさんぶら下がっている。そしてモチツツジの時忘れ、独特の姿を見せるクサギの赤と瑠璃色の果実もおもしろい。
 それに暮れにかけて玄関の飾りによく使われるツルウメモドキがまだ黄色い薄皮をつけたままで、はじけて中から赤い色あいの実を見せるまでにはもう少しかかりそうだ。もちろんイヌビワの実やカゴノキの樹皮に、キズタ、トベラ、イスノキ、タイミンタチバナ、ミミズバイ、クスドイゲ、アコウなど暖地性植物のために普段山歩きの中では見かけないので面白い。

 やっぱり花の咲いているのを目の当たりにすると元気がもらえる感じだ。庭先でしかほとんど見ないツワブキだが、自然の山歩きの中、自生で大群生の満開であったのには小躍りしたくなるくらい、思わずこれはすごい、やった~!と叫んでしまたのだ。。やっぱり海岸や海辺の山などに生えるとの情報どおりだったのもうれしい。

ツワブキ

 着いた峠は糸我峠、ここには2年前に地元の高校の美術部が、江戸時代の糸我峠での茶屋風景を書き上げた大きなものをそばに立つアキニレの大木に持たせかけて展示している。今は茶屋跡にみかん畑となってちょうど収穫時期でいっぱいさがっている。

 

 この一帯には過去の歴史を語る説明板も多く立てかけられて賑やか、全部読もうとすると大変だ。下をみれば珍しい植物たちも年を越せばいろいろ咲いて賑やかとなることであろう。ヤブチョロギ、カラクサケマンなどという帰化植物の名を知ったのもこの峠だ。

 平家物語にはここ糸我峠で白河上皇が輿からおり休息された時、平忠盛が院から賜った祇園女御が男子を出産していたことを報告し、その子に清盛と名付けた話が書かれているとの説明もあり、興味もわき、遠い昔はこの糸我峠の旅人達の賑わいは相当なもので、二軒の茶屋も大繁盛の記録も残っているらしい。当時夏までみかんを残して峠まで上がってきた旅人たちに提供していたとのことで、みかんの長い歴史もあって、今では有田のみかんの名が轟いているのも分かるというものだ。

 さて、そんな糸我峠の歴史話を切りあげて、われらの今日はその熊野古道への道を追わず、直進して南へ鹿打峠に向かおう。その峠には古い古い役行者の石仏が祀られているのだ。

 そしてまたすぐに珍しい標石がたっていた。それは和同開珎という出土地である。なお、ウキペディアによると和同開珎は、708年(和銅元年)に、日本で鋳造・発行された銭貨で、日本で最初の流通貨幣と言われる。皇朝十二銭の第1番目にあたるとのことである。

 この後もみかん畑続く坂道から有田湾の眺めを楽しみながら施無畏寺へ向かう。↓の画像で湾に浮かぶのは左から白崎半島、鷹島、黒島、毛無島、苅藻島と説明板もあった。そして左の湾入部の防波堤内の浜は栖原海岸ということになる。

 

 

 今回は高雄高山寺でもゆかりのある明恵上人の西白上の修業地跡をカットして施無畏寺で昼食とした。桜の頃はすばらしいお花見ができるところだが、この時期はひっそりと人の姿すら皆無である。

 腰をあげるとだらだらと車道をくだってすぐの栖原海岸どおりを歩こう。でもこの海岸の反対側斜面にはいろいろな菊の花などの満開の群生が見られた。アゼトウナ、シマカンギクだが、ついでにムラサキカタバミもいやというほど咲いていたので貼ってみた。ただ、時期的にまだ咲き残っているだろうと期待してきたハマナデシコがまったく見当たらなかったのは残念だった。
 海岸どおりにはトベラの木が多数黄色の実を下げ、マサキは薄ピンクの果実が見られるなど、北部の山域歩きの多いわが身には極めて珍しい植物たちが楽しめるこのハイクはお気に入りでもあるのだ。歴史的にも植物的にも非常に興味の尽きない地でもあり、是非多くの方々にも歩いていただきたい。

アゼトウナ シマカンギク ムラサキカタバミ

 今日はいつもの暖地性の植物観察と歴史探訪ののんびりハイクであったのだが、JR湯浅駅まで50分ほども歩き、冷たい風に身体を温めて帰ろうと、タクシーで5分ほどの国民宿舎湯浅城という、湯浅湾を見下ろす青木山の一角に建つ、珍しいお城の姿をした温泉で温まってから、駅前の果物屋さんで地産の有田みかんを手土産に帰京となったのである。

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