湖西 本坂から大比叡を歩く '12.10.19

 湖西の坂本は歴史の街、比叡山麓で石積みのある門前町として知られる。その豊かな自然に恵まれた静かな街並みを散策気分で、比叡山表参道の本坂登山口へ立った。日吉大社の大鳥居あたりまで歩くと、僧坊立ち並びすざまじい戦国の歴史の渦中にあった一帯だと偲ばれる。

日吉神社横の本坂登山口
 

 東塔本坂は古の坊僧達や多くの善男善女の踏んだ道であろうが、今は荒れるに任せているが、山歩きを常とする身にはいたって初歩的である。途中にはナワシログミが暖かい日を受けて満開であり、傍らにはフユザンショウの赤い果実は終盤となっていた。
 またシロダモという花と果実が同時期に見られる樹木だが、今回は花はまだだったが赤い実が見られた。そしてムラサキシキブの実はまだ緑色で若い。モミやアカガシの大木、そしてこれまた大きなアカメガシワなども見ながらの静かな歩きである。(以下全画像クリックで拡大) 

 登山口から1時間ほどで檀那先徳御廟、どうやら檀那流の祖・覚運(953-1007)のお墓で、檀那とは「施すことです」ということらしい。そしてすぐに聖尊院堂(亀堂)がこれも道より右上に上がったところに立っていた。
 堂内には石仏が祀られており、そばには薬樹院全宗を称えた碑が立っているが、古くなっており字ずらもはっきりしない。それに最下の亀の甲羅ははっきりしているが、頭は亀ではなさそうだが、その意味合いは分からない・・

 この先の法然堂を覗いて、亀塔から15分も歩くと宿坊の延暦寺会館手前からは舗装路である。すると右上に比叡山総門・文殊楼が現れる。もちろん急な階段を上がって2階に祀られる文殊菩薩へお参りも済ませたので、ご利益を期待しよう・・笑

 少し階段を下りて世界文化遺産、国宝の根本中堂到着である。なお、延暦寺では三塔即ち東塔・西塔・横川にそれぞれ中心となる仏堂があり、これを「中堂」というが、東塔の根本中堂はその最大の仏堂である。本尊は薬師如来で根本中堂創建以来、1200年もの間一度も絶やすことなく守られてきた不滅の法灯は万人の世を照らしているといわれる。

 この根本中堂は伝教大師・最澄上人が開いた天台宗の総本山であり、「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)など、三塔十六谷の堂塔の総称で比叡山中に100以上の堂塔伽藍が点在するようだ。現在の根本中堂は延暦7年(788年)に最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりで、開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されたのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことである。

 また、数々の名僧が比叡山で修行したことから、「日本仏教の母山」と言われているが、その名僧たちはつぎのような方たちだ。法然(浄土宗)親鸞(浄土真宗)栄西(臨済宗)道元(曹洞宗)日蓮(日蓮宗)の各上人ら現在日本の主だった宗派の開祖である。

 しっかりお参りしてサイトシーイング気取りであるが、山歩き姿ではこの場に似合わない。さぁ、比叡山延暦寺のお参りが済めば、観光客のそぞろ歩きをぬって己講坂を、法華総寺院前を右折して地道に入り、次の三叉路を左へとり法華総寺院裏の石段を上がると多くのお墓がある。
 その一帯を踏み跡どうりに高みを進めば智証大師廟の道標に突き当たる。この三叉路を右に上がればNTTコミュニケーション、読売、朝日、関西テレビのアンテナ群が立ち、防火水槽奥のピークが本日のお目当ての大比叡である。。

 山頂はヒノキ林に囲まれて展望はまったくない。樹林の中とはいえ、なんといっても1等三角点はりりしい。ここで一服しているとお孫さんを呼ぶ探し声が聞こえる。どうやら以前に登ったことのある山頂を探しているようだ。山頂はここですよ~と声をかけると、小学三年生だというお子さんが現れた。話では京都市内の名門小学校のなかなか背の高い賢そうな三年生と見た。

 比叡ロープウエイで八瀬へ下るお二人と別れ、当方は昼食を済ませて彼らとは反対方向の裳立山コースを坂本へ下山しよう。こちらも久しぶりの大比叡だったが、気分もさわやかにまずは智証大師廟方面に直進し、ドライブウエイに出て信号を渡って西尊院堂前から坂本ケーブルの延暦寺駅へ40分ほどでくだった。
 この駅前は琵琶湖の好展望であり、伊吹山、奥島などがきれいに見える。それに駅内で一休み中にヤマガラが人馴れし、掌にのせた食べ物をくわえにくるということにも出会えたのだ。

 自然の中では鳥も人も同体で、可愛い野鳥に観光客の笑顔、こんな素敵な時をすごせるここの駅長さんたちは幸せな方だな~と見ている人たちの心根が楽しい。当方もフジノキに止まったヤマガラを撮ろうと狙ってみたのだが・・イヤ、すばやい動きで難しい・・

 このようにのんびり、ゆったりの山歩きである。この後も駅の使われなくなったトイレ地から裳立山駅への急坂をどんどん下って、裳立山キャンプ場跡、ここには展望台があるものの周りの杉の木などが成長し、高くなって10年ほど前までは琵琶湖が眺められた模様であるが今は用をなさない。もちろんかたわらのブランコもみな錆びついて乗れる状態はとっくに失している。

 そしてこの道なら紀貫之卿墳墓には参らなければならない。紀貫之といえば平安時代前期の歌人。古今和歌集の選者のひとりであり、とりわけ土佐日記は有名である。もちろん日本文学史上において、少なくとも歌人として最大の敬意を払われてきた人物であることに異論はないと知られる。
 しかしこの墳墓も相当な時をへて、土佐日記始まりの地の南国市国府史跡保存会からのお参り碑も何本か建てられているが、今も墓参は続けられているのだろうか。

 もっともこの後の道はやや荒れ放題だが、40分ほどで比叡山高校野球部のグランド到着、元気な声で礼儀正しい硬式野球部員が練習中である。来年こそは甲子園出場を祈りたい。坂本ケーブル駅にも立ちよって比叡山高校正門前から下山となった。

 このようにして久しぶりの大比叡登頂に5時間もかけて観光を兼ねた山遊びとなったのである。紅葉にはまだまだだったが、いつか秋色の比叡山も楽しみたいものであるが、その時期も忙しくてひとつの身が悲しい・・。

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